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現代音楽の中の笙(5):西洋か東洋か?

本コラムは、雅楽協議会発行『雅楽だより第65号』に掲載された記事です。

 毎年12月になると、中国の上海にて、听见中国(ティンジェン・ヂョングォ)が開催される(2020年は新型コロナウイルス感染症対策のため延期)。あまり日本では知られていないが、2015年より、世界の西洋芸術音楽作曲家を対象に、中国伝統楽器とオーケストラのための作品を委嘱している現代音楽祭である。筆者は2018年に同音楽祭より委嘱を受け、中国笙とオーケストラのための《Pink Elephant in Prentis》を作曲、同年12月に、上海フィルハーモニー管弦楽団により世界初演された。終演後に取材を受けた際、記者の一人に「これは西洋音楽か?それとも現代の中国音楽、はたまた日本の音楽的表現か?」との質問を受け、返答に窮してしまった経験がある。日本人である筆者が西洋芸術音楽の作曲技法と記譜法を使い、ヨーロッパ発祥のオーケストラと中国伝統楽器である中国笙のために作品を作曲した場合、どのような分類法が最も適切なのだろうか。

 現代音楽。そう表現してしまえば、表面的には極めてシンプルかつニュートラルだ。英語ではContemporary Music(同時代の音楽)、ドイツ語ではNeue Musik(新しい音楽)などと表記され、ポピュラー音楽やロックなどの〈現代の音楽〉とも一線を画す芸術音楽を指す。但し、現代音楽は西洋古典派音楽の流れを汲んだ今日の音楽的表現であることは明白であり、近年では西洋芸術音楽(Western art music)という語に置き換えられる事例も多く見受けられる。

 音楽学者であるブルーノ・ネトル(1930-2020)は、西洋芸術音楽を次のように定義している。(1)音楽が細部まで作曲されており、奏者は可能な限り忠実に作曲家の意図を再現していること。(2)前衛的かつ革新的な音楽的表現が許容されていること。そして(3)社会的及び儀式的な制約に縛られた文化的領域から自律的であること。

 無論、音楽の学術的な分類法は長年に渡り、音楽学者の間で議論されてきており、ネトルの明言する定義の一部若しくは全文に反対する声も少なくない。

 日本では、1960年代より邦楽ブームと呼ばれる現象が西洋芸術音楽を学んだ日本人作曲家の間で起こり、現代邦楽・現代雅楽に分類される作品も多く生み出された。中でも、武満徹(1930-1996)が雅楽の編成で作曲した《秋庭歌一具》は、現代雅楽の作品として高く評価されている。同じ頃、欧米の芸術音楽の作曲家達も、笙を始めとする和楽器を用いた作品の創作を始める。但し、グラーツ国立音楽大学で教鞭をとるクリスチャン・ウッツ教授は、ヘルムート・ラッヘンマン(1935-)やクラウス・フーバー(1924-2017)の、笙を用いた作品を分析し、欧州の芸術作曲家たちは「笙を西洋の現代音楽に再構築」していると自身の論文“Beyond Cultural Representation”で述べている。

 一方、黛敏郎(1929-1997)の弦楽オーケストラのための《エッセイ》は、西洋楽器のための音楽が五線譜に記譜されており、一見、西洋芸術音楽の作品に見受けられるのだが、コルビー大学にて音楽学を教えるスティーブン・ナス教授は、当作品と能の《鶴亀》との相関性を(1)楽式と比率、(2)旋律の動態、(3)音色、(4)《鶴亀》の詞章と《エッセイ》の小節数の相似性、そして(5)律動性とリズム的構成の5つの点から導出し、《エッセイ》は西洋芸術音楽ではなく日本音楽であると主張する。ナス教授はさらに、「黛が、弦楽オーケストラのための《エッセイ》で意図的に見せつけた『日本らしさ』は、西洋芸術音楽の代名詞とも言える楽器編成に、『日本語で話すこと』を強要した」とも表現している。

 これらのカテゴリー化が適切であるかは、ここではコメントは差し控えるが、音楽様式の分類は各時代の様々な研究者が多様な方法論を用いて分析してきたため、学術的な統一見解が存在せず、既存の枠組みのみでは、今日の音楽の本質を捉えきれていない状況が窺える。ここまでは、作曲家が生み出した作品を音楽学者が分析を行い、分類するといった構図を紹介してきたが、当の作曲家たちはどのようなアイデンティティを基に創作を行なっているのだろうか。この問いに対する答えの一片を見つけるため、雅楽と現代音楽の笙の演奏家でありながら、作曲家として国内外から委嘱を受ける真鍋尚之氏にお話を伺った。

 「僕は常にコンテンポラリーな作品を作曲しているつもりです。『日本の音楽』だとか、『東洋』を謳ったものは書きたくないし、売りたくないですね。自分は、西洋芸術音楽という手法を用いて、音楽を伝えています」と真鍋氏はストレートに言う。

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真鍋尚之氏(左)と筆者(2021年1月撮影)

 「やはり、演奏家が作曲をするのと、作曲家が作曲をするのとは違うと思うんですよね。自分は演奏も作曲もするので、その棲み分けは自分ではっきりと分かっています。演奏家が作曲をする場合、それは自分でその作品を演奏することが前提となっていることが多いので、僕の中ではそれは『演奏家の作曲』なんです。それが現代邦楽とか現代雅楽と呼ばれるものではないでしょうか。『作曲家の作曲』というのは、自分が演奏するためだけではなく、自分以外の演奏家が演奏することを想定して作るものなんですよね。僕は自我の表現である『作曲家の作曲』を心掛けていますし、そこへのこだわりは強いです。なので、僕の作品のことを現代雅楽とか現代邦楽とか呼んで欲しくないですね。作曲家の僕は西洋音楽にいる側の人間なんで」

 では、〈雅楽奏者としての真鍋尚之〉と〈作曲家としての真鍋尚之〉が衝突することはないのだろうか。「雅楽をしっかり学んできましたし、演奏しています」と真鍋氏は話す。その上で、「僕の中には二人の全然違う自分がいるんです。演奏家と作曲家。雅楽を演奏する時は、伝統を守ろうとする保守的な自分がいて、一方で作曲をする時の自分は雅楽のことは全て忘れ去った状態で挑まないと、雅楽に囚われてしまう。伝統を守るのと新しいものを作るのは、全く対照的な訳じゃないですか。だから、やっぱり真逆のことをする際には、その二人の自分を完全に断ち切らないといけないんですよね」と明かしてくれた。

 笙の作品を作曲する際にも西洋音楽の記譜法を用い、「雅楽的なものは作品から極力排除する」と言う真鍋氏。仮に、観客がその作品から日本的、もしくは雅楽的な何かを感じ取ることがあれば、それは意図的に置かれたものではなく、日本人としての彼の生き方が作品に滲み出た瞬間なのであろう。

 真鍋氏の作品は、前述のネトルが提起する西洋芸術音楽の3つの規準にも全て当てはまるが、やはり作曲家の芸術音楽への向き合い方は百人百様であり、極度にパーソナルな論点であることを踏まえるとなると、当事者である作曲家本人以外が制定する規準に則った薄っぺらいカテゴリーに作品が区分されるべきではないのかもしれない。

 冒頭で述べた筆者の上海での体験に戻ろう。そこで答えそびれた記者の質問に対する個人的な考えをここに示したいと思う。筆者は作品の楽器編成に関わらず、西洋芸術音楽(現代音楽)として知られる表現形式を用いて作曲していると考えている。西洋楽器だけでなく、日本楽器や中国楽器のための作品を創作する際、西洋五線譜をベースにした記譜法を用い、メトロノミカルな時間性を軸に音楽の流れを組み立てていくスタイルは、西洋の音楽理論と文化を踏襲していると言えるであろう。しかし、音楽そのものの核心部分が「西洋」か「東洋」か、はたまた「ドイツの〜」か「日本の〜」かといった類の分類法は、芸術的表現の根本である「作者の主観的体験」を軽視しており、的外れであると感じる。それは、私はゲオルギー・グルジェフ(1866-1949)の「客観芸術」論に否定的なので尚更そう感じるのかもしれないが。

 文化は混ざり合うものであり、本質的には、純粋無垢な固有の文化というものは存在しない。従って、芸術表現における「西洋」や「日本」と言った抽象的な括りは、歴史的な一時代を切り取り、過度に単純化し、硬直化させることにより、偏ったステレオタイプを助長する恐れがある。上記の通り、筆者は所謂西洋芸術音楽で培われた理論などを基に作品を創作しているが、それは私の表現であり、私の人生の物語でもある。将来、同趣の質問をいただけることがあれば、しっかりと自分の考えを説明できるよう、日々考察を続けたい。

 

ご挨拶

雅楽だより第60号より、「現代音楽の中の笙」にまつわるコラムを執筆してきましたが、今号6回目を持ちまして終了となりました。決して日本語で文章を書くことが得意でない帰国生の私の稚拙な記事を6回に渡り掲載して頂きまして、本当に有り難うございました。「雅楽だより」鈴木治夫編集長、各記事のインタビューに応じてくださった先生方、山本華子先生、そして読者の皆様に心より感謝申し上げます。

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清水チャートリー

現代音楽作曲家。大阪生まれ。国立音楽大学を首席で卒業と同時に有馬賞受賞。米コロンビア大学芸術大学院修士課程を修了。ヤドー財団コンポーザー・イン・レジデンス、三菱財団フェロー等を経て、2018年、ドイツに拠点を移す。現代音楽としての笙の記譜法や特殊奏法について、ニューヨーク市立大学、プエルトリコ音楽大学、ストラスブール音楽大学などで特別講義を行っている。ドレスデン在住。

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