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現代音楽の中の笙(3):文化の盗用を考える

本コラムは、雅楽協議会発行『雅楽だより第62号』に掲載された記事です。

 「私はここニューヨークで雅楽の公演を聴いてから、笙の音に魅了され、いつか笙を用いた作品を作曲したいと思っています。しかし、私も私の両親も、日本にルーツを持っていません。私が笙のための作品を世に出す際、気をつけるべきことがあれば、教えていただけますか?」人種のサラダボウル・ニューヨーク市に位置するマンハッタン音楽院作曲科の学生を対象に行った「笙の作曲技法と記譜法」のワークショップで頂いた学生からの質問だ。

 

 近年、文化の盗用(cultural appropriation)という概念が世界に広まっている。文化の盗用とは、社会的少数派の文化を多数派が元の文脈を軽視した上で表層的に流用することを指す。人種・民族的多様性が相対的に少ない日本では馴染みのない概念だが、米国をはじめとする諸外国では大きな問題に発展する可能性のある、極めて敏感なテーマである。米国では、ボストン美術館で行われていた着物の試着イベントが「無神経で人種差別的だ」との批判を受けて中止に追い込まれ、ヴィクトリアズ・シークレット契約モデルのカーリー・クロスがファッションショーにて米先住民族の羽織りをまとい批判が殺到。テレビ放映からクロスの出演シーンがカットされた。当然、雅楽器を用いた作品の作曲家が日本人、または日本にルーツを持つ者でなければ、一部社会から非難される可能性を考えるであろう。筆者は、この概念への正しい理解は、作曲家や芸術家だけでなく、雅楽や雅楽器の普及に励んでいる方々にとっても非常に重要であると考え、このコラムを書かせていただいた。

 

 文化の盗用の指摘は、政治的スペクトル上の左派によってなされることが一般的だ。問題提起の背景には、欧米諸国の植民地主義や帝国主義的歴史がある。20世紀後半のヒッピームーヴメントやニューエイジ運動では米先住民族の思想が、元の文脈を無視した形で社会的多数派である白人によって広められる現象が起こった。米先住民族が過去にヨーロッパ系入植者により土地を追われ、文化的・社会的財産の略奪が行われた過去を考えると、社会的多数派である白人側が、米先住民族の文化を軽率に利用することに対し、配慮の必要性が少なからずあることを理解し易いのではないか。

 

 では、アジア文化の模倣に対する批判を見てみたい。2019年、スコットランド出身の3つ星シェフであるゴードン・ラムゼイがロンドンに、1930年代の東京をイメージしたというアジアン・フュージョン・レストラン「ラッキー・キャット(Lucky Cat)」を開業し、文化の盗用だとして炎上した。「本物のアジア料理」を売りにしていた中、厨房にアジア人が一人もいなかったことや、「ラッキー・ゲイシャ」など、文化的に無神経な名前のカクテルがメニューに並んでいたことも、火に油を注ぐ形となった。ここまで挙げた例は、それなりに直截的で分かり易いが、文化の盗用にまつわる問題の本質や、定義の線引きはそう単純ではない。

 

 海外の日本料理レストランは、日本人以外の経営者が全体の9割以上を占めるとされ、そのうち中国系、韓国系、ベトナム系などのアジア系移民が大半を占める。日本では類例のない品を日本料理として提供する店も多い中、アジア系移民が経営する日本料理レストランが文化の盗用を批判されることは前例が見当たらない。反対に、農林水産省が2006年に「正しい和食」を認証する制度を発表した際、欧米メディアから「国粋主義の復活」との批判を受けることになってしまった。なぜ「寿司ポリス」(国家が寿司を取り締まるとのことで、欧米ではそう揶揄されている)の登場は、文化の盗用に敏感な欧米メディアの好意的でない報道を招いてしまったのかは、文化の盗用論の問題点と合わせて後述する。

 

 日本文化は古来より、外来文化を柔軟に取り入れ、独特な文化形成が行われ続けてきた。加えて、今日の日本に住む多くの日本人は、社会的多数派として多数派文化である日本文化の中で暮らしているため、日本国内で行われている異文化・少数派文化の流用から発生しうる問題に関しては比較的無関心であるかに見受けられる。しかし日本人がドレッドロックスやヒップホップ系ファッションを誇示しながら海外の特定地域に行くのはトラブルに繋がる可能性があり、十分な注意と配慮が必要だ。また、日本以外のルーツを持つ住民が今後日本に増えることが予想される中、少数派文化の日本独自の受け入れ方を今一度考える必要性も感じる。そこで今回は、このテーマに長く向き合ってきたゼミソン・ダリル(姓名の順)とミヤ・マサオカ(名姓の順)の両氏(以下敬称略)に、文化を発信する者としてこの概念にどう向き合うべきか、話を伺った。聞き取りは、ゼミソンとは日本語で、マサオカとは英語で行なった。

 

 カナダ出身の作曲家であるゼミソンは、ヨーク大学にて博士号を取得後、文部科学省の奨学生として来日、東京芸術大学にて近藤譲氏に学んだ。和楽器を用いた作品が高く評価されており、《憂きこと聞かぬところありや》が第3回一柳慧コンテンポラリー賞を受賞した。現在は、九州大学にて後進の指導に当たっている。日系アメリカ人のサウンドアーティストであるマサオカは、サンフランシスコ雅楽会を立ち上げるなど、米国にて積極的に日本文化に携わってきた。箏や電子音楽を用いたパフォーマンスが好評を博している他、サウンドアート作品が伊ヴェネツィア・ビエンナーレや独ボン美術館など、世界中で展示されている。2016年より米コロンビア大学サウンド・アーツ研究科のディレクターを務めている。二人は、文化の盗用についてどう考えるのだろうか。

 

 2016年にゼミソンが、和歌を題材にした弦楽四重奏作品を、加ウィニペグにて発表した際に、観客にいた大学生より「これは文化の盗用ではないか?」との質問が出たという。それに対し、「自分のルーツとは別の文化を用いる時に重要なのは、自分がどの人種かではなく、どれほどその文化と伝統を理解しているかを問うべきだ」とゼミソンは力説する。「文化の盗用を主張する人たちに賛同できない点は、そこに『人種』という概念を入れてくるから。日系カナダ人は着物を着ても良いが、白人のカナダ人はそれが許されないというのはおかしい。カナダで生まれた人は全員カナダ人のはずだが、なぜ違いをつける必要があるのか?」

 

 ゼミソンは来日後、能楽を深く学んだ。「文化と人種を関連付けてはいけない。誰でも文化や伝統を学ぶことで、その伝統に連なることができるべきだ」と言う。上記の通り、文化の盗用に批判的なのは左派だが、「人種を分けて考えるという意味合いからして、右派の概念に取り憑かれている。特定の人種の文化を引用することが文化の盗用になると説明する一部の人たちは、資本家に踊らされている。資本家たちはマスメディアなどを通じ、人種別の対立構図を作り、怒りの矛先が自分たちに向かないようにしている」と踏み込んだ。

 

 マサオカはワシントンD.C.出身。日系アメリカ人女性として、アメリカ社会の中で、日本文化や社会的少数派文化のフェティッシュ化を大なり小なり目にしてきたと話す。両親は第二次世界大戦中、米国の日系人強制収容所へ送られた世代だ。戦前、カリフォルニアの寺院で雅楽が小規模ながらも演奏されていたが、真珠湾攻撃に始まる日米開戦により寺院は強制的に閉鎖されたという。「当時は日本の伝統的表現の一切が禁止され、雅楽器は大通りに集められて燃やされた」と話してくれた。「戦後も、差別を避けるため、日系アメリカ人は自分たちのルーツとなる音楽を捨て去り、多くはオルガン音楽など、アメリカ社会により受け入れてもらえる表現方法を見つけるに至った」。そうした経緯もあり、米国では社会的多数派である白人が日本文化を安易に模倣することは、文化的に無神経だと見られるのだ。

 

 1993年、マサオカのデビューアルバム《Compositions/Improvisations》が発売された。ディスクジャケットには、着物に身を包んだマサオカと二十絃箏(弦は21本)が写った写真が選ばれた。しかし、日系アメリカ人女性が着物を着ることにより、既に米国社会に溢れていた「東洋のエキゾチックな女性像」を助長しかねないと、日系コミュニティ内では否定的な意見が多かったという。「日本文化と音楽は私の一部。それでも他の日系人の人たちは、私が着物を着るのは正しくないと思っていた」。その言葉に、文化的アイデンティティの形容しがたい複雑さを感じた。

Miya Masaoka.jpg

ミヤ・マサオカ《Compositions/Improvisations》

 世界が文化の盗用に敏感になっている今日だが、その概念に対して異議を唱える声も多くある。外国の料理を嗜んだり、異文化の風習を体験することは、その文化を身近に感じ、偏見をなくすための第一歩であるとの考えだ。また、文化は特定の個人や集団が所有できるものではないとする主張や、文化は広がり、混じり合うものである、とした意見もある。

 

 「文化の盗用に対する明確な線引きはない」とマサオカは言う。「しかし、文化の盗用が成立するには、そこには多数派と少数派の力関係が存在している必要がある」。ゼミソンも、「経済的・社会的なある種の上下関係が二つのコミュニティに存在している場合、社会的・経済的に力が上のコミュニティが一方のコミュニティの文化を流用するのは、対等な文化交流ではなく文化の略奪に繋がる可能性があり、配慮が必要だ」と話す。特定の民族や人種の差別や偏見を助長する表現が世界中に溢れているのは紛れもない事実であり、その是正は急務だ。では日本社会にも、文化の盗用の議論を導入すべきなのだろうか?

 

 筆者は、欧米の所謂進歩主義的思想というだけで、文化の盗用論をそっくりそのまま日本社会に取り入れる行為は荒唐無稽であると考える。この概念が欧米で叫ばれるのには、歴史的・社会的な事情があり、それは前述した「寿司ポリス」への批判のような形で矛盾が露出する。米国では、日本人、中国人、韓国人など東アジア出身者を「アジアン」として一括りに考える傾向が根強くある。そして当然、寿司は「アジアの料理」であり、「アジアン」がそれを握っているのを見て安心する。加えて、そこで提供されている寿司は、ドラゴンロールなどの米国発祥の巻き寿司であり、米国人の食文化の一部になっている。よって、文化の盗用を指摘する多くの人々は、白人が作る創作日本料理には批判を浴びせるものの、アジア人の握る独創的な寿司の「由来」には無関心なのである。さりとて、文化ナショナリズムを露骨に表した「正しい和食」の認定制度にも全くもって意義を見出すことはできないが、文化の盗用とは、米国やカナダ、そして一部西欧の社会構造に基づいた論理であり、概念の輸入はその形骸化を意味する。日本は、日本独自の多文化融合への配慮を考えるべきではないだろうか。

 

 雅楽などの日本音楽、又は日本楽器の普及に尽力する方々は、時に文化の盗用に対する意見を求められることもあるであろう。私は文化の盗用の議論をする際には、文化を盗用されたと見られる当事者を言論に招くことが必要だと考える。

 

 外国人が雅楽器を作曲に用いることに対し、「当事者」である笙奏者の宮田まゆみ氏は、「文化は国内でも国外でも捉え方が様々です。日本国内で育った人たちが自国の文化をはたして正しく捉えているか、とあらためて考えるとそれも怪しいところです。雅楽にしても、多くの人が平安時代の雅な情景を想像したり、儀式の中で演奏されてきたような厳格で荘重な曲想を思い浮かべたりするかもしれません。もちろん、それも『有り』です。でも平安時代の人々にとって、華やかな文化を持つ先進国、唐から入ってきた音楽はとてもモダンな異国情緒たっぷりの最新ニューアルバムだったようです。それを、受け取った人々の感性で次第に変容させ、日本の伝統音楽として育ててきました」と話す。「行為が人種差別に結びついていったら絶対に良くないのでそれは気をつけなければいけません」と強調した上で、「何が正しいか、正しくないか、判断は難しいですが、『正解』はないのかもしれません」とのコメントをいただいた。

 

 最後に、芸術における文化の盗用論について、筆者の立場を記しておきたい。私は、明確な線引きが不可能な文化の盗用という概念を、文化を盗用されたと認識される当事者を除く、「正義」を掲げる多くの局外者の声が、社会問題に敏感な芸術家の自由な表現を萎縮させかねない現状に対して強い懸念を覚える。芸術家は、一部もしくは広範な意味での政治や社会が求める同調圧力に屈することなく、一市民が社会的集団の中で発言し辛い言論を、又、自分の追い求める「偽りのないメッセージ」を表現する特権と責任を持つ。それ故、文化の盗用だと批判される可能性のある表現も、その文化を意図的に貶めるものでないことを前提に、必要に応じて大いに用いるべきで、その後向けられる可能性のある批判や抗議の声を受け止める行為も芸術家の責務の一部であると考える。

 

 「あなたは作曲家としての特権と責任を持っています。誰に何と言われようと、自分の信じる『偽りのないメッセージ』を表現してみてください」とワークショップで質問をしてくれた学生に答えたが、真意がうまく伝わったことを願う。

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